初学者への招待状

批判的実在論(CR)に興味を持ってはいるけれども、自分の研究に応用するのは難しそうだと感じている方に、今すぐ役に立つテキストが出版されましたので、紹介します。『Critical Realism for Health and Illness Research: A Practical Introduction(健康と病いの研究のための批判的実在論: 実践への招待)』、著者はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(University College London)名誉教授のプリシラ・オルダーソン(Priscilla Alderson)です。


Priscilla Alderson
https://iris.ucl.ac.uk/iris/browse/profile?upi=DPALD60

Alderson, P. (2021). Critical Realism for Health and Illness Research: A Practical Introduction. Bristol: Policy Press.
https://doi.org/10.2307/j.ctv1fcf8g0



1 批判的実在論は、難しい?
2 この本が生まれたきっかけ
3 この本の目的
4 この本のよいところ
5 目次
6 著者紹介

1 批判的実在論は、難しい?

批判的実在論には興味あるけど難しそうで、という声をよく聞きます。確かに、まず初めに理解しなければならない概念がいくつか(いえ、わりとたくさん)あり、それが独特の用語で表現されるため、何かの呪文のように感じる人がいてもおかしくありません。批判的実在論の特徴は、存在論的実在論、認識論的相対主義、判断的合理主義だ、と言われて、すんなり理解できるわけないですよね?
私のアカデミックライティングの指導者であった、ロス・マオア(Ross Mouer)教授は、批判的実在論について私が必死に説明しても、「マルクスとギデンズがすでに言っていることをペダンチックに焼き直してるだけじゃないか」と疑わしい目を向けたままでした。(意見の相違はあっても、マオア教授が今も私の導師であることは変わりませんが。)
批判的実在論の独特な概念と用語は、むやみに難解な言葉を用いて知識をひけらかすためにあるのではありません。批判的実在論の全体像をおおまかに掴んだ上で、一つ一つ理解すれば、なるほど、そういうことを言ってるのか、と目の前が開けます。ただ、そこに行くまで、ちょっと辛抱は必要かもしれません。
また、批判的実在論を学び始めてはみたが、実際の研究実践のとき、どう適用すればいいのかがわからない、という困惑を感じる方も多いようです。そうですよね。おっしゃることはよくわかります。
批判的実在論は、思想であり、メタ理論であり、世界を見る方法です。しかし、それだけでなく、研究の分析に使う方法論でもあります。ただ、実際の研究を進めていく上での、方法論としての手順が確立されているわけでありません(でもがっかりしないで!)。どうやって社会を説明するかは、それぞれの研究者が、自分自身で模索していくべきで、研究者の創造性や想像力を大いに発揮できる余地は広大に広がっています。つまり、批判的実在論を用いた研究は、「データを手順にそって当てはめていけば答えが出るはず→手順が正しいんだから答えも正しいに決まってる」的な思考停止状態の研究の対極にあるのです。
しかし、それを承知した上でも、いざデータと向き合った時、具体的どうすればいいのか、再び途方にくれてしまいます。
そんな初学者のみなさんに、ぜひ読んでほしいテキストが出版されました。

2 この本が生まれたきっかけ

本書『健康と病いの研究のための批判的実在論: 実践への招待』が生まれたきっかけと、その目的を、オルダーソン教授が「はじめに」(p.1-10) で語っていますので、それに基づいて簡単にまとめます。英語からの訳は梶原、[]内は梶原による補足です。

この本は、批判的実在論の提唱者ロイ・バスカー(Roy Bhaskar)が仲間とともに始めた、博士課程の学生を対象とした読書会から生まれました。ロンドン大学教育研究所に集まった学者、大学院生たちは、テキストを読み解き、議論し、批判的実在論への理解を深めていったそうです。2007年から続いていたこの読書会は、とても知的な刺激に満ちたものだったろうと想像できます。
しかし、残念なことに、バスカーは2014年に急逝してしまいます。それ以来、オルダーソン教授がこのミーティングを引き継ぎ、開催してます。会の形は、より発展したものとなり、現在は、CRをどのように研究に応用できるか、より実践的な内容になっているそうです。
つまり、哲学者バスカーが始めた読書会は、社会学者のオルダーソン教授に手渡され、博士課程やポスドクの研究者たちが、自分の研究を批判的実在論を取り入れてどう深め、発展させるかを実践する、研究会として運営されているということですね。
その、研究会の成果が、本書です。ですから、内容は実践的であり、なおかつ、バスカーの直系の遺伝子を受け継いでいます。

3 この本の目的

「健康と病いの研究者のための、入門的、実践的、応用的なCRのハンドブックはまだなく、この本はその空白を埋めることを目的としています。」とオルダーソン教授は述べます(Alderson 2021: 7)。

そして、本書の目的を以下5点に要約しています。


・健康研究における主要な伝統の間の、現在の矛盾や分裂を解決する。

・健康と病いに対する他のアプローチと、CRがどのように違うのか、CRは何を付加できるのかを示す。

・CRを健康と病いの研究に適用する実践的な方法を説明する。

・研究者がCRを理解し、適用するための最初のステップをガイドする。

・読者が自信を持って、CRのより高度な研究に進むことができるように促す。
(ibid.:7)

確かに、この本は医療、看護、その他ヒューマンサービスに関わる研究者を主な読者に設定していますが、私は、社会学、教育学、心理学、その他のどんな分野でも、批判的実在論を学びたい人にとって、理論の理解と研究実践を同時進行で学べるテキストになっていると思います。

4 この本のよいところ

・文章が明快、わかりやすい
この本の日本語への翻訳が待たれますが、英語で読むとしても、文章は平易で明快です。批判的実在論の本を書く人たちは、哲学、社会学の論客が多いので、翻訳を読んでいてすら、???とつまずいてしまうこともありますよね。その点、オルダーソン教授は、現実にある医療、公衆衛生の問題を提示しながら、非常にわかりやすく、批判的実在論を説明してくれます。

・高度な概念理解よりまず実践するよう励ましてくれる
オルダーソン教授は、「CRは、哲学者を頂点とする高い梯子のようなものです。 私は、最初の数段で研究者を助け、経験と自信を身につけてもらうことを目指しています。」(ibid.:7)と述べています。また、最初はいくつかのコンセプトを徹底的に理解して使用することに集中した方が良い、とも助言しています(ibid.:7)。ですから、批判的実在論の全てをマスターするまで研究を始めるのを待つ必要はないのです。

・各章の最後に同僚と一緒に書いたり話したりするための質問が用意されている
例えば、第2章終わりには、以下のような質問が記載されています。

1.[ノートの]1ページを3つに分け、自分の研究のテーマ、研究課題、研究対象あるいは研究対象者を「経験的」「現実的」「実在的」の3つのセクションに分類する。

2.経験と現実[の領域を]理解する:どのような種類のデータを収集していますか?あなたの認識はデータ収集にどのように影響しますか?あなたの経験的データの限界は何ですか?あなたの研究における、現実の[領域の]について、データから何がわかり、何がわからないのか?何が失われ、何が見えないままなのでしょうか?

3.実在に向かって:あなたが研究している現象の実在的原因はどこにあるのでしょうか?どのようにして生成的なメカニズムを探ることができますか?
(ibid.:63)

各章に、このような優れた質問が用意されていますから、それを基に、研究実践に批判的実在論を適用する訓練を進めていくことができます。一人でこの質問の答えを探求するのもよいですし、ゼミや研究会などでのディスカッションで、このテーマで話し合う時間を取ってもよいと思います。
もちろん、これらの質問は、すぐに答えが出るものではなく、考えを深めていくためのものですので、すぐにタスクを書き上げられなくても、落ち込む必要はありません。

・批判的実在論を適用した医療看護領域/医療社会学の豊富な研究事例
各章のテーマに関連した研究事例が研究者自身によって報告されています。例えば2章では、メキシコの新生児集中治療室(NICU)での日常生活を調査した、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの、ロサ・メンディサバル・エスピノーサ博士(Dr Rosa Mendizabal-Espinosa)の研究例を読むことができます。

ロサ・メンディサバル・エスピノーサ博士

ほとんどの赤ちゃんが、NICUにいる間に感染症にかかり、4人に1人が亡くなる状況で、エスピノーサ博士は、観察とインタビュー、そして病院の記録を問題の証拠として報告することはできました。実際の診療は、スタッフの意見や推奨されている基準はとは矛盾していたからです。しかし博士は、さらに踏み込んで、なぜそうなったのか、という理由を探求したかったのです。「CRの、その影響においてしか見ることができない因果的メカニズムの実在的レベルがここでは役に立ちました。」(ibid.: 53)
つまり、エスピノーサ博士は、インタビューや観察で、経験的な領域のデータを集め、病院の記録によって、現実の領域で何が起きていたかを再構築し、それにとどまらず、「なぜそれが可能だったのか」を説明するために、批判的実在論の、3つのレベルでもっとも深い部分にある、実在的レベルでの構造がどう現象に影響していたかを推論していったのです。
この本では、理論だけでなく、実際に研究者が、批判的実在論を自分の研究にどのように応用したのかが学べるので、読者自身の研究にそれを当てはめて考えらるでしょう。CRを応用したの研究者たちが、寛大に手の内をあかしてくれているので、とてもありがたいです。
そして、以下にリストを掲載するように、医療看護、医療社会学の領域の研究者、博士課程の学生には、親しみやすく関心の湧く事例が豊富です。

事例一覧

1.1パラダイムを結びつける:地域密着型統合ケアサービスの評価 (p36)
ハンナ・ケンドリック(Hannah Kendrick)
エセックス大学、イギリス

2.1NICUにおける3段階の実在(p53)
ロサ・メンディサバル・エスピノーサ(Rosa Mendizabal-Espinosa)
ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン、イギリス

3.1一般的なメンタルヘルス問題を抱えた刑務所出所者に対する複合的介入を評価するための形態形成サイクルの利用(p86)
サラ・リブチンスカ-バント(Sarah Rybczynska-Bunt)、ローレン・ウェストン(Lauren Weston)、リチャード・ビング(Richard Byng)
プリマス大学コミュニティ・プライマリーケア研究グループ、イギリス

3.2外傷性脳損傷リハビリテーションへの看護師の貢献に関する看護記録の検討(p91)
アンジェラ・ダベンポート(Angela Davenport)
オークランド工科大学、 ニュージーランド

4.1批判的実在論とハーバーマスの理論の統合
(p120)
グラハム・スカンブラー(Graham Scambler)
ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン、イギリス

5.1重度の精神疾患と診断された人の身体的健康の改善(p130)
スチュアート・グリーン・ホーファー(Stuart Green Hofer)
ロンドン大学衛生熱帯医学大学院、イギリス

5.2性的暴行後の、フェミニスト理論に基づいたカウンセリングの研究 (p132)
ブリー・ヴァイツェネッガー(Bree Weizenegger)
メルボルン大学博士課程、オーストラリア

6.1[弁証法の4つのステージ]MELDとアレルギーを持つ子どものケアの改善
(p163)
ソフィー・スピッターズ (Sophie Spitters)
インペリアル・カレッジ・ロンドン、イギリス

[MELDとは、弁証法の4つのステージ、First Moment(最初の瞬間)、Second Edge(2番目のエッジ)、Third Level(3番目のレベル)、Fourth Dimension(4番目の次元)の頭文字をとったものです。参照(Alderson 2021: 153)]

7.1イギリスの新自由主義的な地域精神保健サービスの改革の文脈における精神的苦痛に対する理解の対立
(p176)
リッチ・モス(Rich Moth)
リバプール・ホープ大学、イギリス

・ロイ・バスカーが博士課程の院生向けに始めた読書会から生まれた本

批判的実在論は、様々な学問領域の学者たちによって、吸収され、それぞれのやり方で改善され、今も発展中です。ただ、テニスでも茶道でも、まずは基本のフォームを覚える必要があるように、どんな理論も、それを提唱した人から学んで自分のものとすれば、以後自分で応用していくときに、自信が持てます。前述のように、バスカーが始めた読書会は、著者のオルダーソン教授に受け継がれました。読者は、この本の中に、オルダーソン教授という素晴らしい継承者を通して、バスカー自身の思想と声が響いているのを感じることができます。

5 目次

はじめに
(pp.1-10)

1 理論の再考:実践的研究の基礎とパラダイムの問題点
(pp. 11-40)

2 批判的実在論の基本的な概念
(pp.41-64)

3 構造とエージェンシー:結び付ける
(pp.65-94)

4 健康と病いの研究:価値自由か、価値負荷か?
(pp.95-126)

5 社会的存在の4つの面:より多くのつながり
(pp.127-144)

6 時間をかけて変革をもたらす変化を研究する
(pp.145-166)

7 重要なのは世界を変えること:研究を政策と実践につなげる
(167-180ページ)

ABCD-論文、書籍、解説、辞書-用語集
(pp.181-186)


(P.187-206)

参考文献
(207-236ページ)

6 著者紹介

最後に、著者のウェブサイトを参照しながら、著者を紹介をします。

https://iris.ucl.ac.uk/iris/browse/profile?upi=DPALD60

プリシラ・オルダーソン教授は、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの子ども研究(Childhood Studies)の名誉教授です。1960年代に子どもたちへの支援とアドボカシーの仕事を始め、ロンドン大学バークベック校で英語の学位を取得し、ロンドン大学ゴールドスミス校で社会学の博士号(「小児心臓手術に対する両親の同意」)を取得。1984年から研究に携わり、1991年からはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの、社会科学研究ユニット(SSRU)で研究を続けているそうです。

研究テーマは、子どもと若者の社会学、子どもの権利、批判的実在論、研究倫理、子どもの健康・病気・障害、インクルーシブ教育、政治・経済・エコロジーにおける子どもに関する学際的研究など。

ウェブサイトには、285もの論文、著作が掲載されています。
https://iris.ucl.ac.uk/iris/browse/profile?upi=DPALD60

本書以外の近著

『子どもや若者を対象とした研究の倫理: 実践的ハンドブック』
Alderson, P., & Morrow, V. (2020). The ethics of research with children and young people: A practical handbook. London: Sage, fourth version.

『子ども期の現実とイマジネーションの政治学: 第2巻: 批判的実在論の実践的応用と子ども研究』
Alderson, P. (2015). The Politics of Childhoods Real and Imagined: Volume 2: Practical application of critical realism and childhood studies. Routledge.

『子ども期の現実とイマジネーション: 第1巻: 批判的実在論概論と子ども研究』
Alderson, P. (2013). Childhoods real and imagined: Volume 1: An introduction to critical realism and childhood studies. Routledge.

最後に、私の経験を少し

2020年に、私は世界批判的実在論学会(International Association for Critical Realism)のオンラインの大会に参加して、オルダーソン教授に画面を通してお目にかかる機会がありました。大会の間、発表者に的確な質問と助言をして議論をリードする何人かの学者の方々がいましたが、オルダーソン教授もその1人でした。初学者の発表にも、ユーモアを持って励ます姿勢は、本書に一貫して流れるサポーティブな語り口と同じでした。
この本をホームページでご紹介したいとメールで連絡したところ、快くご承諾いただきました。そして、私の研究関心である社会の中での動物についても、非常に理解と感心を示して、ご自身の書いた動物と人の関係に関する以下の素晴らしいエッセイを送ってくださいました。

Alderson, P. (2018) Are humans so different from other animals? Resurgence and Ecologist, 308, May/June.

https://www.resurgence.org/magazine/article5109-humans-and-animals.html

また、私が、エージェンシーとしての動物について書くことを考えていると伝えると、参考になる論文を紹介してくださいました。
オルダーソン教授のしてくださる一つ一つのことに、私はロイ・バスカーの、知識を人々と共有する姿勢を見ています。私が批判的実在論を学び始めたときには、悲しいことにすでにバスカーは他界していました。しかし、バスカーのオープンなアプローチと社会改革への情熱は、批判的実在論に関心を寄せる人たちに受け継がれていると感じます。
願わくば、私自身もあとに続けますように・・・・。